人生よ、こんにちは

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最初のブログは、タイトルを適当につけることから始めた。
「人生よ、こんにちは」
うん、悪くない。書き進める中で、きっとそんな話になるといいな。
 

僕は書くことが大好きで、暇があれば、evernoteを開いている。けれど、書いては消し、書いては消し、公開されるものは、とても少ない。
そして時に、その作業がとても無意味に思えてくる。書きたいのだけれど、それが時に何のために書いているのか、わからなくなる。

 

書くこと。それは僕にとって、自分に触れることだ。自分の体に触れるように、自分の心に言葉を通じて触れてみる。そして何かそこにあるものを掬い取って、形を与えてみる。それがとても大切なことに思えたり、意味がないことに思えたり。
新しいブログにしようと思ったのは、一度リセットしたいと思ったからだ。これまでの僕を。

 

僕は、僕を知らない

僕は、須藤峻という人間に、ほとんど興味を持ってこなかったと思う。僕は自己探求をしてこなかった。じゃあ、心の探求を口にしながら日々何をしてたの?

実は、僕がしてきたのは「人間の探求」であり「心の構造分析」だった。僕はいかなる時も、僕という個人の体験を通じて、「人間」を探求してきた。心ってこう動くのか。人間関係はこう出来上がるのか。人間はこういう体験を、このように受け止めるのか。

 

だから、須藤峻という個人については、ほとんど、何も知らない。
自分がどんな性質をもち、どんな指向性をもち、どんな趣味で、何を好み、どんな風に生きたいと望んでいるのか。それを、僕は、よくわかっていない気がするのだ。
なので、この新しいブログでは、それを見つけてみたいと思っている。

 

本当?を重ねてきた日々

僕は、常識的であるということが、嫌いだ。もともと天邪鬼だったのか捻くれ者なのか知らないけれど、「常識」という言葉によって、見えなくなるものがたくさんあると思っている。だから、「自分の当たり前」を振りかざす人をみると、メラメラと闘志を燃やしてしまう。

けれど、何もかもを、本当かな?っと疑ってかかるので、相当面倒な人間になった。
普通の人が、大前提として議論することを、僕は全部、そもそも・・という話にしてしまう。「成長するためには・・・」と問われれば、「成長って何?する必要は?」と返す。「良い夫婦関係を作る」と言われれば、「夫婦って何?」「良いって何?」と返す。これは、僕のデフォルトの思考形態なので、超めんどくさいと思う。

思えば、常識的な判断をすれば、避けられたものは、無数にあると思う。最近では、「貯金を全部使い果たしたら困る」というのも僕はわからなかったので、有り金を全部使い切ってしまった。おかげで、家族からはどうしようもない「放蕩人間」と裁定される憂き目にあった。まあ仕方がない。

 

こんな風に、将来に備えるとか、人間関係を大切にするとか、仕事はするとか、全部、本当かな?と思って、考えてしまう。それらはとっても深いテーマなので、結論は出ない。だから普通の人がさっさと通り過ぎる場所で、いつまでも留まってしまう。本人は面白いと思っているのだけど、人によっては、本当に、「ただグズグズしているだけの人」に見えるだろう。きっと、不可解極まりない存在だと思う。

 

僕が僕に興味がなかった理由

さて、常識を疑う・・・と言っても、丸腰で挑むのは難しい。なので、僕は認知理論や論理的、科学的、心理的なスキームをもちいて、常識を解体してきた。
須藤峻という人間の日々の体験は、「実験」だった。そして、僕にとって書くという行為は、実験を通じて発見した「真実」を伝える場だった。真実ってのは大げさだけど、僕は普遍性や一般性を与えることに務めてきた。「みんなが使える知」を少しでも提供したかった。

最初の話に繋がってくるのだけれど、だからこそ「須藤峻」に僕はあまり興味がなかった訳だ。僕が興味があったのは、みんなに共有できるレベルの普遍的な心理構造だったから、須藤峻という人間の個性は、邪魔だった。むしろその「特異性」の部分は不要だった。ゴリラの研究をするなら、その目の前のゴリラの”アイちゃん”の特殊な部分ではなく、ゴリラ一般に当てはまる部分が大切になるのと同じだ。

 

行き詰まりと新たな方向性

さて、それをやってきて、僕は行き詰まりを感じている。というのは発見の旅を進める中で、僕は僕の生活をあまりにおざなりにしてきたと思うからだ。日々の瞬間瞬間を楽しく生きるということにおいては、僕は相当に上級者だ。それは冗談だけども、朝起きれば幸せという人間にとって、そこは探求対象としてあまり重要に思えなかった訳だ。
けれど、今、もう一度、自分がどんな人生を歩んで行きたいのかを、人生に問われている。

夜と霧の作者、ヴィクトール=フランクルは、人生の意味について、こんなことを言っている。

「私たちが『生きる意味』を問うのは、はじめから誤っている、人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているのだから」

つまり、生きるとは「人生に、何を求められているのか」という視点に立つということだ。僕は今、その言葉を、「本当に自分の生きたい生き方を見つけなさい」という言葉として受け取っている。その問いを前に、僕は小学生になって、不安と期待とに体を小さく震わせる。

 

理論から零れ落ちたもの

例えば、「自分を大切にする」ってなんだろう。僕も、色々書いてきたので、そんな自分に教えてもらうと過去のブログなど見てみると、「自分の自然でいること」と書いてあった。

 

自然にしていると、何が起こるのか。まずは、自分の生理に従うってのは「自然」な気がする。例えば、起きたい時に起き、寝たい時に寝て、食べたいものを食べ、好きなことをする。それをやってみた。すると、仕事はなくなるし、お金はなくなった。ここで僕が気がついたこと。それは、「現実の状態と理論の関係性はわからない」っていう話だった。身も蓋もない話なのだけど、今の僕の現状が「自然にしていた」からそうなったのか、「自然さが足りなかった」からそうなったのか、僕にはわからない。

僕は「自然にしよう」としたら、寝て暮らすタイプの人間だ。それで本当に人生が回るのか、回らないのか。もしくは、寝ているとそのうち不意にやる気が湧いてきて、世界を変える冒険に出るのか。それも結局わからないままだ。「自分の自然」という一言をとっても、それが本当のところ、何を意味しているのかは、さっぱりだ。ただわかるのは「自分の違和感や不自然さや感情的な抑圧」をそのままにしていくと、多くの人が倒れるということ。こっちはわかりやすいのにね。

 

さて、結局、全ての話が同じなのだ。「〜すると、うまくいく」というのは、なかなか難しい。僕が色々発見したつもりになっていた「理論」。それを言葉にした時に、実は、重要なものがたくさん零れ落ちてしまっていて、もしかしたら、その溢れた方に、「本当」が入っているのかもしれないなと思う。

 

とするなら、僕にできることは、ある特殊事例としての、須藤峻の人生そのものを、主語をつけて語ること以外にないのではないか。そんなことを感じている。そう、これまで僕が放っておいた、須藤峻という人間のことだ。
このいちいち留まって考え出す、めんどくさい人間のことだ。
僕は僕の何を発見するだろう。その向こうに、何があるだろう。
そんな訳で、僕が僕を描いていくこと。そんなことを、新しい場所で始めてみようと思います。

 

新しい人生よ、こんにちは。
(↑ めっちゃとってつけた感・・・ )