何かを知ることで、失われていくものがある

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「心のことを学ぶほど苦しくなってしまったあなたに伝えたいこと」
という本を書きました。 

心の世界を学び、それを伝えるという場所で生きてきましたが、
それをしながら、感じてきた違和感や、
「知識」を通じて何かにたどり着くことの難しさを
言葉にしたのがこの本です。

そして、この本を書きながら、これもまた「知識」だよね
という矛盾も感じていました。

あらゆる知識、それがいかに優れた知識であろうと
それを「真実だ」と捉えた瞬間に、その人の生に対して、
ある「力」を行使することになります。

それが「自分を愛しましょう」というようなレベルの知識ですら
「愛していない」「愛している」という分割を生み出し、
「愛している状態」への渇望、そこへの無理な飛躍への欲求と、
それを出来ない自分(そしてそれが投影された相手)への否定を生み出してしまう。

僕は
目の前にあるもの、全ては、自分の鏡だよ。
だから、本当に自分を生きるということは、
「傷つけられた」とか「攻撃された」という幻想を抜け、
「自分が自分を傷つけることを選択した」という場所に立つことなんだ

なんて、書いてきました。

それは、「仕組みの理解」としては、正しいのかもしれませんし、
確かに、その視座へとシフトする時に、見えてくる世界がある。

けれど、「傷つけられた!」と泣いている人の生に宿る美しさを眺めていて、
それを解除することに、なんの是があるのかよくわからなくなったんですよね。

味わうことで消えていく とか 体験を受け入れる とか
言葉を変えても同じ。

それをする事で、「何か」や「どこか」にたどり着こうとしているのなら、
何かに辿り着くための手段として「生」を扱っていることになる。
そんな気がしたのです。

確かに、
・自分を愛することで、世界を愛する
・被害者をやめ、創造者を生きる
それは、適切なプロセスかもしれないけれど、
それによって、何がしたいのだっけ?

そもそも、僕らは何のために生きているのだっけ?
生きることは何かに至る手段なのだっけ?
今、そこにある体験を味わうということ、
自分の生を愛するということは、
そういう「知性的な試み」なくしてはできないものなのだっけ?

答えのない問いです。

一方で、僕らの持つ特殊な知識や力が
誰かの役に立っているというのも、確かなことだと思います。

昨日も、何人かの方にセッションをしました。
人間関係で苦しさを感じていらっしゃったので、
なぜそのような状況が作り出されているのかを、明らかにし、
どんな風にそれを解消していくのかを、お伝えしました。

きっとその知は、彼女の日常を少しづつ変えていくでしょう。
その道を進むのなら、パズルが解けていくように、たくさんのものが見えてきて、
文字通り、生きる世界が変わってゆくでしょう。
その中で見えてくる新たな世界の美しさを、僕は知っている。

けれど、その中で失われていくものもある。
その視座に立つことで、見えなくなってしまう世界がある。

僕らはどちらの現実を選ぶこともできて、どちらの現実も、同じだけ、美しい。

僕は時に、この地球という星で、僕らが、肉体を持って体験するということの本質は、理解などせず、知など得ずに生きることなのかもしれないと、思うことがあります。

僕が伝えてきたこと、僕が探求してきたことと、
大きく矛盾するんですけれどね。

謎を解くことはできるけれど、解けない謎にこそ、僕らは魅せられる。

誰かをまっすぐ愛したり、まっすぐ憎んだりすることの喜び、
現実に絡め取られ、転んで、また立ち上がって、
それでも、「学び」とか「気づき」なんて言葉でまとめずに
懸命に今日を生きることの、美しさ。

それは、生きるということの、生そのものが持つ美しさなのかもしれない。
僕は、改めて、そこに魅せられています。

 

<今後の予定>

10/29 秋の空の下 公園でトランス・ボディーワーク @ 新百合ヶ丘

www.facebook.com

 

11/17 トランス・ペインティング@ せかいの音カフェ ふくろうの森 in 鶴巻温泉

 

<著作>

スピリチュアル、精神世界、心理、宗教、学ぶほどに苦しくなっていませんか?学ぶほどに、なんだかズレてきていませんか? 見えなくなっていきませんか?
現役心理カウンセラー、心理セラピストである著者が今、一番伝えたいこと。
自身の体験を踏まえて、心の探求者たちが陥ってしまう罠、
そしてそこからどうやって抜け出すのかについての航路を示す、渾身の一作。
『心のことを学ぶほど苦しくなってしまったあなたに伝えたいこと』
著者:須藤峻
https://www.amazon.co.jp/dp/B076D362Q1
こちらで、第1章を無償でお読みいただけます。
https://note.mu/sudoshun/n/n754c38c0ef84

あの日の自分に贈る本を書いたよ

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※ちなみに、これは大好きな江ノ島ラムピリカの本棚。レヴィ=ストロースとか、中沢新一とか、ケン=ウィルバーとか、チョプラ博士とか、クリシュナムルティとか・・・あれ、うちの本棚かな!?

電子書籍を書くといい

九月のこと。色々行き詰まり、これから何をやっていこうかな、と思っていると、

電子書籍を出すといいと、友達がわざわざ連絡をしてきてくれた。

 

彼とは一度会ったきり、しかも、時間にして30分の出会いだった。

それにも関わらず、彼が何年もかけてコツコツ蓄えてきた

出版のノウハウを惜しげも無く教えてくれた。

 

僕はまず、それに深く感動してしまった。

 

そうか、僕は書くことが好きだから、やってみよう!
そう思って色々テーマを考えたけれど、書けたのは自分のこと。

やっぱり、自分の経験したこと以外に、伝えられないんだね。

 

結果として、ここ何年かの自分の人生を総決算することになった。

そんなチャンスをくれた彼に、心から感謝をしたい。

本当にありがとう。

 

タイトルを決めた

 

まず、書籍のタイトル。これは、すぐに決まった。

仮のタイトルとして書き始めたけれど、結局これにした。

『心のことを学ぶほどに苦しくなってしまったあなたに伝えたいこと』。

長すぎるかな?とも思ったけれど、これしかないなと思った。

まさに、ここ何年かの自分のテーマそのものだ。

 

それ以前、2013年までは、相当に順調だったのだけれど、

そこからジェットコースター!

穏やかに、緩やかに、飄々と暮らしていた僕が、

人生と取っ組み合って、大げんか!

本当にたくさんの学びがあった日々だった。

 

その只中の2015年、僕はこんなことを書いている。

 

人は、誰か一人を愛するということを通じ、

世界を愛することを学ぶ。

 

愛の宛先は、固有名詞ではない。

愛とは、世界に対する一つの共通態度のことだ。


(略)

 

本当に、一人の人を愛するのなら

僕らはすべての出会いに、温かな親密を見出すだろう。

そこには、いつだって無条件の愛が流れているだろう。

そしてそこに本当のパートナシップが生まれているだろう。

 

これは、僕の願いであり、祈りだったな。

なんども、なんども、そのことを突きつけられた日々だったし、

愛するとは何かを、とことん考えさせられた。

 

学んだことを手放す日々

この何年か、何をやってたのかというと、徹底的に手放すってことだった。

それまでの自分が信じてきたこと、積み重ねてきた学びや知識を一旦手放すってこと。

 

それ自体は、そう珍しいことではないと思う。

守破離”という言葉の通りで、

何かを学ぶには、自分のそれまでのやり方を手放して、

新しいやり方を取り入れる必要がある。

 

そういう意味で、この本に描かれていることは、とっても普通のことだ

けれど、心の世界の学びについて

そのことを、明確に書いている本に僕は出会ったことがなかった。

「学んだ全ての知を、手放す日が来る」ということを

ちゃんと書いている本を、僕は知らなかった。

 

例えば、世界は投影だとか、与えたものを受け取るとか、

ビリーフを手放すとか、言葉が世界を作るとか、

イマココを生きるとか、無条件の愛とか・・・

 

それらも、例外じゃないんだ。

それらは「知識」でしかない。

だから「それらの知」を、手放すことなく、進めない場所が来る。

 

この本には、そんな話を書いた。

そのプロセスを、僕がどんな風に体験したのか。

どこで行き詰まり、何をしたのか。

 

あの日の、僕に贈る本

それは、あの日の僕が一番知りたいことだった。

だからこの本は、あの日の自分に向けたプレゼントだ。

 

「あとがき」にそんなことを書いた。

 

もしこんな本があったら、あの頃の私は助かっただろうなと思うのです。私に必要だったのは「問題を解決してくれそうな、新しい理論」でも、「解決し終えた人から見た風景」でもなく、少しだけ先に行った人が、実際にどんな風に生き抜いたのか?というリアルな体験談でした。

ですので、この本は、あの頃の私がいた場所、そこに近い場所にいる人たちにとって、小さなコンパスになったらいいなと思って書きました。この本を読んだからといって、何かが大きく変わることはないでしょうし、明日から試せるすごいメソッドが書かれているわけではありません。けれど、心の旅をゆく皆さんにとって、私の体験が少しでもヒントになれば嬉しいです。

 

僕の経験が、何かの役に立てば、こんなに嬉しいことはない。

何か感じるところがあったら、ぜひ読んでみて欲しい。

 

『心のことを学ぶほど苦しくなってしまったあなたに伝えたいこと』

 

10/18 追記:第1章まで、無料で読めるようにしました!

note.mu


Kindle版はこちら(電子書籍版の方が安く設定しています)

https://www.amazon.co.jp/dp/B076D362Q1

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今日も、みなさんありがとう。

人生よ、こんにちは

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最初のブログは、タイトルを適当につけることから始めた。
「人生よ、こんにちは」
うん、悪くない。書き進める中で、きっとそんな話になるといいな。
 

僕は書くことが大好きで、暇があれば、evernoteを開いている。けれど、書いては消し、書いては消し、公開されるものは、とても少ない。
そして時に、その作業がとても無意味に思えてくる。書きたいのだけれど、それが時に何のために書いているのか、わからなくなる。

 

書くこと。それは僕にとって、自分に触れることだ。自分の体に触れるように、自分の心に言葉を通じて触れてみる。そして何かそこにあるものを掬い取って、形を与えてみる。それがとても大切なことに思えたり、意味がないことに思えたり。
新しいブログにしようと思ったのは、一度リセットしたいと思ったからだ。これまでの僕を。

 

僕は、僕を知らない

僕は、須藤峻という人間に、ほとんど興味を持ってこなかったと思う。僕は自己探求をしてこなかった。じゃあ、心の探求を口にしながら日々何をしてたの?

実は、僕がしてきたのは「人間の探求」であり「心の構造分析」だった。僕はいかなる時も、僕という個人の体験を通じて、「人間」を探求してきた。心ってこう動くのか。人間関係はこう出来上がるのか。人間はこういう体験を、このように受け止めるのか。

 

だから、須藤峻という個人については、ほとんど、何も知らない。
自分がどんな性質をもち、どんな指向性をもち、どんな趣味で、何を好み、どんな風に生きたいと望んでいるのか。それを、僕は、よくわかっていない気がするのだ。
なので、この新しいブログでは、それを見つけてみたいと思っている。

 

本当?を重ねてきた日々

僕は、常識的であるということが、嫌いだ。もともと天邪鬼だったのか捻くれ者なのか知らないけれど、「常識」という言葉によって、見えなくなるものがたくさんあると思っている。だから、「自分の当たり前」を振りかざす人をみると、メラメラと闘志を燃やしてしまう。

けれど、何もかもを、本当かな?っと疑ってかかるので、相当面倒な人間になった。
普通の人が、大前提として議論することを、僕は全部、そもそも・・という話にしてしまう。「成長するためには・・・」と問われれば、「成長って何?する必要は?」と返す。「良い夫婦関係を作る」と言われれば、「夫婦って何?」「良いって何?」と返す。これは、僕のデフォルトの思考形態なので、超めんどくさいと思う。

思えば、常識的な判断をすれば、避けられたものは、無数にあると思う。最近では、「貯金を全部使い果たしたら困る」というのも僕はわからなかったので、有り金を全部使い切ってしまった。おかげで、家族からはどうしようもない「放蕩人間」と裁定される憂き目にあった。まあ仕方がない。

 

こんな風に、将来に備えるとか、人間関係を大切にするとか、仕事はするとか、全部、本当かな?と思って、考えてしまう。それらはとっても深いテーマなので、結論は出ない。だから普通の人がさっさと通り過ぎる場所で、いつまでも留まってしまう。本人は面白いと思っているのだけど、人によっては、本当に、「ただグズグズしているだけの人」に見えるだろう。きっと、不可解極まりない存在だと思う。

 

僕が僕に興味がなかった理由

さて、常識を疑う・・・と言っても、丸腰で挑むのは難しい。なので、僕は認知理論や論理的、科学的、心理的なスキームをもちいて、常識を解体してきた。
須藤峻という人間の日々の体験は、「実験」だった。そして、僕にとって書くという行為は、実験を通じて発見した「真実」を伝える場だった。真実ってのは大げさだけど、僕は普遍性や一般性を与えることに務めてきた。「みんなが使える知」を少しでも提供したかった。

最初の話に繋がってくるのだけれど、だからこそ「須藤峻」に僕はあまり興味がなかった訳だ。僕が興味があったのは、みんなに共有できるレベルの普遍的な心理構造だったから、須藤峻という人間の個性は、邪魔だった。むしろその「特異性」の部分は不要だった。ゴリラの研究をするなら、その目の前のゴリラの”アイちゃん”の特殊な部分ではなく、ゴリラ一般に当てはまる部分が大切になるのと同じだ。

 

行き詰まりと新たな方向性

さて、それをやってきて、僕は行き詰まりを感じている。というのは発見の旅を進める中で、僕は僕の生活をあまりにおざなりにしてきたと思うからだ。日々の瞬間瞬間を楽しく生きるということにおいては、僕は相当に上級者だ。それは冗談だけども、朝起きれば幸せという人間にとって、そこは探求対象としてあまり重要に思えなかった訳だ。
けれど、今、もう一度、自分がどんな人生を歩んで行きたいのかを、人生に問われている。

夜と霧の作者、ヴィクトール=フランクルは、人生の意味について、こんなことを言っている。

「私たちが『生きる意味』を問うのは、はじめから誤っている、人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているのだから」

つまり、生きるとは「人生に、何を求められているのか」という視点に立つということだ。僕は今、その言葉を、「本当に自分の生きたい生き方を見つけなさい」という言葉として受け取っている。その問いを前に、僕は小学生になって、不安と期待とに体を小さく震わせる。

 

理論から零れ落ちたもの

例えば、「自分を大切にする」ってなんだろう。僕も、色々書いてきたので、そんな自分に教えてもらうと過去のブログなど見てみると、「自分の自然でいること」と書いてあった。

 

自然にしていると、何が起こるのか。まずは、自分の生理に従うってのは「自然」な気がする。例えば、起きたい時に起き、寝たい時に寝て、食べたいものを食べ、好きなことをする。それをやってみた。すると、仕事はなくなるし、お金はなくなった。ここで僕が気がついたこと。それは、「現実の状態と理論の関係性はわからない」っていう話だった。身も蓋もない話なのだけど、今の僕の現状が「自然にしていた」からそうなったのか、「自然さが足りなかった」からそうなったのか、僕にはわからない。

僕は「自然にしよう」としたら、寝て暮らすタイプの人間だ。それで本当に人生が回るのか、回らないのか。もしくは、寝ているとそのうち不意にやる気が湧いてきて、世界を変える冒険に出るのか。それも結局わからないままだ。「自分の自然」という一言をとっても、それが本当のところ、何を意味しているのかは、さっぱりだ。ただわかるのは「自分の違和感や不自然さや感情的な抑圧」をそのままにしていくと、多くの人が倒れるということ。こっちはわかりやすいのにね。

 

さて、結局、全ての話が同じなのだ。「〜すると、うまくいく」というのは、なかなか難しい。僕が色々発見したつもりになっていた「理論」。それを言葉にした時に、実は、重要なものがたくさん零れ落ちてしまっていて、もしかしたら、その溢れた方に、「本当」が入っているのかもしれないなと思う。

 

とするなら、僕にできることは、ある特殊事例としての、須藤峻の人生そのものを、主語をつけて語ること以外にないのではないか。そんなことを感じている。そう、これまで僕が放っておいた、須藤峻という人間のことだ。
このいちいち留まって考え出す、めんどくさい人間のことだ。
僕は僕の何を発見するだろう。その向こうに、何があるだろう。
そんな訳で、僕が僕を描いていくこと。そんなことを、新しい場所で始めてみようと思います。

 

新しい人生よ、こんにちは。
(↑ めっちゃとってつけた感・・・ )